終わりなき旅

【夢見てた未来はそれほど離れちゃいない】と信じながら、子供達の成長記録、趣味のことや投資について書いていきます。

東日本大震災から11年

こんばんはです。

 

今日で【東日本大震災】から11年となりました。

 

当時、自分は栃木県佐野市で、食品会社の工場責任者としていて働いておりました。

そして、その事務所の2階で嫁さんと7月に生まれたばかりの娘と住んでいました。

あの揺れが来た時はちょうど事務所でパソコンを打っていました。

最終的には震度5強か5弱だったと思いますが、今まで体感した事のない揺れに青ざめて靴のまま工場内に飛び込んだのは今でもしっかり覚えています。

それは工場内にいる社員やパートの命の危険を感じたからです。

自分がいた工場建屋は相当古く、もはや一番最初の図面がわからない状態でした。

工場内に入ると真っ暗でパートさん達がキャーキャー言いながら出口に向かって来ます。

全員いる事を確認し社員に誘導させて事務所前で避難してもらいました。

(この時点で嫁さんと娘も降りて来て事務所前でパートさん達と一緒にいました。)

 

そして信頼できるナンバー2と工場で使用しているフライヤーの(厚揚×1・油揚×4)ガスの大元を閉め、外に出て来てさらに大きいプロパンの大元も閉め、ボイラーも確認し、とにかく万が一のガス漏れが心配だったので全てのガス栓を閉めました。

 

その後30分くらいで同様な余震の揺れがあり、今日の工場の復旧はないと判断して従業員を家に帰しました。

 

停電のため工場の出荷口も電動シャッターで開きません。

そして排水処理設備も稼働しません。

 

我が家も家にいても電気も来ていなく夜は極寒になるため、さほど影響が出ていなかった実家(埼玉県深谷市)まで帰ることにしました。

 

栃木県足利市群馬県太田市を抜けていく中で停電していて信号機が点かずに渋滞しているなど、普通は1時間ちょっとで行けるのが4時間かかりました。

 

そのまま本社に行き社長に状況を説明しましたが、その時初めて津波の酷い状況を知りました。

あのテレビに映し出されていた記憶は今でも鮮明に残っています。

 

一晩家族は実家で過ごしましたが、自分は翌日の朝3時にナンバー2に実家に迎えに来てもらい、午前中には電気も復旧し工場はその翌日から稼働させる事が出来ました。

この2日間で他の会社から『○○食品の佐野工場が壊滅的だ』とか『○○食品の工場長が震災でケガした』など、たくさんのデマと心配して温かい電話をもらったりもしました。

 

と、ここまでただただ自分の身に起きた11年前の出来事を書いただけになってしまいました。

 

ここからなんですが、この後起きた【福島第一原子力発電所事故】あれをテレビで見ていて爆発した瞬間を見た時に、『何でこんな時に産んじゃったのかな。なんかゴメンな。』って娘を抱っこしながら言った記憶があります。

 

たぶん、自分の中で絶望感みたいなのがあったのだと思います。

 

そんな中、被災された方々に何かできないかとも考えました。

自分の中に一つある信念が、『偽善者と思われても何もしないより少しでも役に立ちたい』というのがあります。

佐野市から被災地に物資を届ける募集窓口があり、そこで娘と同じ子供達が被災していたらと考えて、少ないですがおむつ、おもちゃ、タオルなどを持って行きました。

 

今後もどこで自然災害が起きるかわかりません。

せめて同じ国にいる同志、困ったらお互い様の精神はずっと持ちたいです。

 

 

 

そしてあれから11年。

 

0歳だった娘は11歳になり、そして息子が産まれ、命の尊さや様々な事を経験してきました。

やはり、あの時産まれてくれて良かったんだと思います。

 

地震津波の被害により命を落とされた方、また被災された方に自分は手を合わせる事、また少額の募金をする事しか出来ません。

そして建物など、インフラの復興も進んでいるとは思います。

難しいのは心の復興だと思います。

 

どう書いていいかわかりせんが、いつか少しでも前向きにみんながなれればと願うしか出来ません。

 

直接の被災者ではない自分はこの東日本大震災で起きた事を子供達にしっかりと伝え、自然災害に対する防災準備、避難計画をおろそかにしない事しか出来ませんが、出来る事はしっかりやれればと思います。

 

本日も最後まで読んでいただきまして誠にありがとうございます。